ALL DAY I DREAM ABOUT SOX

4月10(木)付読売新聞朝刊に「カタカナ語」に関する全国世論調査の結果が掲載されていました。「カタカナ語」という表現に何か恣意的なものを感じなくもないですが、要するに外来語に関するアンケートってことです。


これは現在日本に「氾濫」しているカタカナ語使用の是非について尋ねたもので、幾つかの単語に関しては昨年国立国語研究所が発表した言い替え案(「デイサービス」を「日帰り介護」、といったような)と従来のカタカナ言葉、どちらが使用する際にしっくりくるかを世代別に調査した結果も併記されています。


一見して、随分風向きが変わったなあという印象を受けました。


以前は日本におけるカタカナ語(以下鬱陶しいので「外来語」で)の扱いといえば「わかりにくい」「言い換えるべき」といった類の、実効性に乏しい理想主義や日本語ナショナリズム紙一重の利便主義が幅を利かせていたものですが、今回の調査結果では「大半の日本人は『カタカナ語が多過ぎて問題だ』と言いながら、本音ではその実用性を認めているのだ」「一部難解なものだけ言い換えるべき」と、その主張にかなりのトーンダウンが見られます。


皮肉な見方をすれば、これはおそらく昨年国立国語研究所が発表した「具体的な言い換え案」によって齎された軟化なのでしょう。


今まで散々「言い換えろ」と具体作もないまま槍玉に挙げてきた外来語を、いざ実際に言い換えてみたら「頭脳集団(シンクタンク)」「障壁除去(バリアフリー)」「分析家(アナリスト)」といった間の抜けた代替案しか出てこなかった。
文句だけ言ってきた人も現実の厳しさを自覚したんじゃないでしょうか。


発表された当初は「頭脳集団て!」完全に馬鹿にしていた代替案ですが、現状認識を一歩進めて障壁を除去するという点では大きな役割を果したってことになりますな。さすが頭脳集団の人達は素敵なことをしてくれるなあ。


僕は一貫して外来語の言い換えには反対です。


これは単に自分が若いから外来語に抵抗が無いとか、英語ができるとか、そういう個人的な理由ではありません。言葉というのは利便性だけを考えて安易に変化させるべきものではないと考えているからです。


当然このポリシーを伸ばしていくと「外来語を軽々しく言い換えない」「若者言葉もスラング以上の存在としては認めない」という一貫した立場になるはずなんだけど、なぜか「若者言葉はけしからん」と言っている奴は「外来語は言い換えるべき」とか矛盾したことを言うんだよね。まあ要するになんも考えてないんだろうけど。


あれは「日本語を大事にする」ということで主旨一貫してるつもりなんだろうか。「僕は一生童貞で過ごしたので世界で一番女性を大事にした男性として表彰されるべきです」みたいな思考回路だよな。お前の存在が日本語のチンカスやっちゅうねん。


閑話休題(「閑話休題」と「皮剥き兄弟」が似ているという事実を発見しつつ)。例えば「インフォームド・コンセント」ってあるじゃないですか。言い換え候補は「納得診療」なんですよね。あれを例にもう少し話を伸ばしてみましょう。


仮に「納得診療」という言葉がいかに美しく機能性に優れ、覚えやすい日本語であったとしても(実際にはそうでもないけど)、軽々しく言い換えるべきものではない。
ここで問題になるのは、日本語の中へ新たに進入したひとつの外来語の存在やその集積による「氾濫」ではなく、「インフォームド・コンセント」という単語が登場するまで「納得診療」という概念を持たなかった日本人、及び日本語の精神性であると思います。


最初から日本語で言えるものならば、既に日本語の表現が確立されて然るべきですから、これまで本当に日本の医療界において「インフォームド・コンセント」が行われていなかったかはさておき、これが外来の概念、或いは外国から持ち込まれて一般化した概念であるということを「インフォームド・コンセント」という言葉が雄弁に証明している、というわけ。


要するに、外来語というのは、日本語や日本人が持たなかった(或いは言語として欠いてきた)概念やアイデアの存在を「カタカナでマーキングする」ことによって分かり易く示してくれる警鐘のようなものなんです。


それを言い換えるとは本末転倒にもほどがある。


これは「看護婦」を「ナース」、「配達」を「デリバリー」と呼ぶ事で親しみが増す、というのとは全く違う言葉の作用です。
現に官僚制に代表される日本従来の政治システムが「アカウンタビリティ(説明責任)」という概念を欠いてきたばかりにバブル崩壊以降の10年で我々日本人がどれだけ辛酸を舐めてきたことか。僕たちや僕たちの両親の財布が、一番良く知っているはずです。


カタカナ言葉は確かに難しい、紛らわしい。
しかし日本語で言い換えたところでどうにも馴染まない。


そんな時、問われているのは「どちらを選択するか」という目先の利便の問題ではなく、そのどちらを選択しても残る違和感を、違和感のある概念そのものをどう受け止めるかという覚悟じゃないのかな。


或いはどちらに言い換えても馴染まないものは自分に必要無いと見切りを付ける、とかな。ただ、「自分に必要無いものは他人にも必要無い」という態度に不思議な言語ナショナリズムをくっ付けて自己弁護しているうちは、それこそバリアフリー社会など永遠に来ない、という気がします。別に俺は要らないもんな、駅前のスロープ。


高齢者層で最も「馴染みがあって」「使いたい」という答えの多かったカタカナ語は「バリアフリー」と「デイサービス」だそうで。要するにそういうこっちゃ。