僕たちとは僕を含まない他人である


あの、大体わかると思うんですけど、僕は上述したような状況になると本気でこれっぽっちも信じているわけではありません。


なんかね、CCCD問題も同じなんですが、「僕たちは許容しない」「僕たちは買いません」「俺たち消費者を舐めるな」と言い切ってしまえばそれで良し、みたいな風潮に(批判するつもりは全くないですが)多少違和感を覚えたもので。某悲観論のパロディにしてみました。


修辞法の有名なエピソードに「『我々』とは論者を含まない他人を指す主語である」というのがありまして、音楽みたいなプライベートな問題には特にこれを感じるんですよね。本当にCCCD買わないで我慢できるの?もう買っちゃったんじゃないの?音楽好きだからこそCCCDで出た音源我慢できずに買っちゃうんじゃねえの?って方向で。


僕も最初は「買わねー」とか思ってたけど、結局買っちゃいましたしね。俺やっぱ音楽業界や消費者の未来より自分のCD棚や聴きたい欲求を満たすのが優先だったわー、みたいな。すげえ受身。


まあ、万が一上述したような状況になったら、僕は瓦礫の中から音楽を再発見しますけどね。郊外のレコード店でBOXセット買って、子供のおもちゃやら奥さんの下着といった瓦礫の中から埋もれたレコードを探し出して再発見!


やばいほど素敵に受身すぎる。俺やっぱ自分が何もしなくても黙って聴いてられるから音楽好きなんだなあ。みんなで声を挙げてCCCD輸入権問題に反対しようとか、無理すぎる。だってリスナーだもん、スピーカーじゃねえもん。


以上、活動内容には全面的に賛成していますが、この種の問題に強硬に反発していらっしゃる方に「我々リスナーは」と連呼されるとちょっと無理矢理同化させられたみたいで気持ち悪いなあというお話でした。


やってることは別に批判するつもりないんだよね。でも高遠さんに「日本国民を代表して」とか言われるとやっぱ腹立つ。谷啓に似てるし、今日からお前のあだ名はクレイジーキャッツ。決定。