Life's A Bitch

前に「人はみじめだから音楽を聴くのか、或いは、音楽を聴くから人はみじめになるのか」ということについて書いた。これって実はニック・ホーンビィの『ハイ・フィデリティ』を読んでの感想だったんだけれど、彼の続編『アバウト・ア・ボーイ』でも同じテーマが扱われている。この本の感想はまた改めて別の日に書くとして、今日はひとことだけ(と言っても充分に長いけど・笑)。


「ロックンロールが俺の人生さ!」


なんて言えば確かに聞こえはカッコ良い。だけどそれって裏を返せば「俺の人生はカラッポだ!」だと告白してるようなものでもある。


ロックで生計を立ててる人、或いは食っていけなくても自分の手でロックを生産している人にとっては「ロック=人生」だと言えるかもしれない。だけど、ただロックを聴いてそれが人生だと思ってるような人間は、他人の窓を覗いて人生を擬似体験してるに過ぎない。


アバウト・ア・ボーイ』ではそのことがカート・コベインにシンパシーを感じ、ニルヴァーナに傾倒している女の子を通して語られている。「カートはあたしの感じてることを分かってた」彼女はそう言う。この世の中がクソみたいなもので、生きてる価値なんてないんだということを分かってくれていたと。だけど主人公の男の子を通して筆者はこう語る。「ほんとうにそう思ってるの?」「ただそう思いたいだけなんじゃない?」と。


人間は「喜び」「悲しみ」「怒り」などの感情をどこかで表に出さないと生きていけないんだと思う。生物学的なことは良く分からないけれど、それが人類が死滅することなく、この地球上で生き延びていく「必需品」であり、「知恵」なのだろう。


「ロック」はそうした「必需品的感情」を手軽にぬくぬくと手に入れる一種のドラッグなんだと思う。それは僕も良く分かってる。だけどドラッグ摂取者、或いは喫煙者が、人生をお手軽に楽しむものとして、最初は自分でそれをコントール出来てるつもりで始めても、次第にそれがなしでは生きていけないと思い込む(ほんとはそうじゃないわけだから、あくまで「思い込む」ね。ドラッグやタバコがなくても人は生きていける)「中毒患者」になっていくのと同じように、「自分の人生」ではなく、「虚構の人生」の方に夢中になっていく。


ホーンビィはそのことを見抜き、「カラッポの人生」を生きている人々の悲劇を喜劇として描いている。何故なら人は本当に不幸だったら音楽など聴こうとは思わないはずだから。自分の愛する彼女を失ったとき、本当に音楽に慰めてもらおうとか思うだろうか。もしその人が「自分の人生」を生きていたとしたら、そうは思わないはずだ。多分音楽どころじゃないだろう。


現代は「ひきこもり」の時代だと言われる。自宅から外に出ない「ひきこもり」ではなく、他者と踏み込んだ関係を築かないという意味での精神的な「ひきこもり」。それって自宅でお手軽に「感情の起伏」が手に入るからではないだろうか。音楽や映画、小説、TV、ネット…、「感情の起伏」だけなら外に出なくてもこれだけで充分だ。「生きている」という「擬似体験」には事欠かない。そしてこの「疑似体験」のいいところは決して「本人を傷つけることがない」ということ。


僕は間違いなくこうした現代のドラッグ中毒患者の一人であり、「ひきこもり」なんだと思う。そしてそれが自分一人だけではないんだという安心感を抱えながら、僕は今日もぬくぬく生きていく。決して傷つくことのない他人が作った仮想現実の中を。それが多分僕にとっての「ロックンロール」なのだろう。