インターネットで今誰が対決しているのか


半年ぶりにLINK更新しました。リンク切れになっていたところを削除して、新しいところを幾つか加えたり。もう少し継続的に整理していきます。


僕がLINK更新をさぼっていた6ヶ月間というのはまさにBLOGという形態が日本のインターネット世界に普及した時期であったようで、今回整理した中にもBLOGに移行したサイトや、もっと手軽なはてなダイアリーに更新の主体を移して本家は跡地のみ、みたいなサイトも結構ありました。


元々この『時計仕掛けのグランジ』もBLOGっぽくしたくて始めたサイトです。2002年、まだBLOGが余り一般化してなかった時期に、なんとなく海外のサイトをみていて「あ、こういう気軽に全記事にコメントできるようなサイトいいな」と思ったものの、どうやって作ればいいのかわからなくて、無理矢理掲示スクリプトを組み合わせて作ったのがこのサイトですから。


それじゃあ今ならMovable Typeとかに移行すりゃ良いじゃねえかって話ですよね。時間ができたらやります。今年の課題。


しかし、はてなダイアリーやBLOGがポピュラーになって以来、音楽レビューを書くサイトが本当に増えましたね。はてなダイアリーだとキーワード機能があるので、関連サイトを見付け易いってのもありますけど、昔に比べて自分が興味を持っているアーティストのレビューに辿り着くまでのストレスが非常に軽減されたように思います。


僕がネットをはじめた99年頃なんて、本当に酷かったんだから。アーティスト名で検索すると、「僕のCD棚紹介」みたいなページが沢山ヒットしてね。あれは一体なぜ流行っていたのか良くわからないんですが、そのサイトの管理人が持ってるアルバムのリストががーって出てくんの。で、アルバムタイトルとアーティスト名以外に何の情報も無し。ダイヤルアップで苦労して繋いだ挙句にこれかよ!何の参考にもならねえよ!みたいなケースが良くありました。


でもなんだろう。余り年寄りくさいコメントは避けたいんだけど、情報とツールが充実しはじめた一方で、その後ろにある書き手の個性とか書き手の影響力みたいなものが逆にどんどん薄くなってきているような危惧を持っているのも事実です。


僕が969work.comのトップページに固執して、はてなダイアリーでは絶対に音楽レビューめいたことを書かないのも、ここに理由があります。もうちょっと詳しく説明しますので、少しだけ旧世代の戯言に付き合ってくださいよ。


テキストサイト華やかなりし頃、隆盛を極めた(と僕が自分が属していた狭いネットコミュニティの中で勝手に傾向として感じていた)のが所謂「メンタル系」と評されるようなサイトでした。書き手が日々の葛藤をネガティヴな部分多めで赤裸々に綴っちゃう系のサイト。


この種のサイトは大体が「寂しい!誰か構って!理解して!」という共有願望と「私は特別!誰にも理解できるわけない!だって○○占いでもあなたは変わり者って書いてあるもの!」という孤立願望という矛盾したふたつの感情の狭間で存在していました。


個人的に、こういうサイトにおいて文章は単なる手段としてのみ利用されているという感想を持っていました。要するに、文章は(自分だけでなくネットの向こう側にいる「閲覧者」がBBSに書き込むような文章も含めて)彼・彼女にとってその日を乗り切るためのトランキライザーに過ぎず、自分を理解してくれる存在があれば、それは別に文章でなくても、彼氏や彼女でも構わない。文章は代替の利く手段であったという意味です。


恋愛の初期状態にいる人の閉鎖係数が高い、ってのが特徴、みたいな。恋人ができると急にサイト閉じちゃったり、恋人とのトラブルが原因でサイト閉じちゃったりする。書くのが目的じゃない人たち。


で、ここでは、その行為自体の善悪とか、僕の好みはさておいて、はてなダイアリーに話を戻します。


詳しい原因は良くわかりませんが、はてなダイアリーやら各種BLOGでは、どうやらこの種の躁鬱日記は書きにくいみたいです。逆に増えてきたのが、軽めのレビューを含んだ脅威のサブカルデータベース。


作成ツールを使ってhtmlファイルを転送して...といった煩雑さが無くなって更新が容易になった所為か、一日中テレビを見てなきゃとても書けないような充実したテレビ批評やら、この人は一体一ヶ月に何冊本を読んでるんだ?というようなブックレビュー、そして音源の発売翌日に大量に登場する音楽レビューと、読者としては非常にありがたい、プチレビューが増えた。この1年間で、日本語で書かれる(広義の)「批評」の数は、サイト数のそれを遥かに上回るペースで増加していったように思います。


ただ、こうなってくると、今度は批評そのものが目的から手段へと変化してしまっているように見えるのは僕が穿った物の捉え方をし過ぎているせいでしょうか。生活環境の変化もあって、僕がインターネットに向ける時間や好奇心が減った、というのも勿論個人的な事情としてあるとは思うのですが、「書き手」が印象に残るレビューが少なくなっているように感じます。


レビューは印象に残るし、参考になるんだけど、書き手の印象が薄い。かつて「自分を都合良く理解してくれるコミュニケーション」が目的で、文章を手段としてのみ利用している人たちが「物書きを目指しています」と発言する度に覚えていたのに似た違和感を、最近のレビューに覚えてみたり。


なんていえばいいのか、今度は消費が目的で、レビューが手段みたいになってるんですかね。歯止めの利かない消費生活のトランキライザーとしてレビューがある、みたいな。すみません、今背伸びしてちょっと偉そうなこと書きました。


でも絶対あると思う。「俺レビュー書いてるもん。これは消費じゃなく創造ですよ」っていう言い訳で無意識に自分を正当化してる部分が。一日中テレビ見てて学校にも行ってねえ、フリーター街道まっしぐらだけど、俺レビュー書いてるもん、これクリエイティブだもん、みたいな。


或いは毎日仕事に追われて自分は磨り減る一方で、ストレス発散についガンガンもの買っちゃうんだけど、これは浪費じゃないもん、俺レビュー書いてるもん、とか。


少なくとも僕にはそういう一面があることは否定できないです。


だから歯止めかけるためにはてなダイアリーじゃレビュー書かないの。ここだと気軽に書け過ぎちゃって本当にリミッター外れちゃいますから。「ボリュームのあるレビューをトップページに更新することしかしない!」と自分で制約を作ることで、「ほら、こんな馬鹿みたいに沢山CD買ったって、結局レビューも書けねえだろ」と消費生活にブレーキを掛けるイメージ。


今ここを見てくれてる人たちも、殆どの人はインターネットのスタートページはなんらかの検索エンジンであると思います。検索したい単語を入れると、順番を付けて、機械が勝手に有意義な情報を表示してくれる。


このことが如実に示しているように、インターネットってのは要するに格付けツール、ランキングツールなわけですよね。こんなの手垢の付いた指摘だと思いますけど、最近じゃorkutみたいに、遂に友達という生身の人間にランキングを付けるツールまで出来ちゃいました。


だからレビューってのは本当にインターネットと相性の良い存在なんだと思うんです。自分の知ってる本やら映画やら音楽やらを良いとか悪いとか星3つだとか、自分の基準で格付けするわけで。


そのこと自体はそうしたツールを開発して、馴染んでしまった人間の宿命ということで、批判しても仕方ないなと思うんだけど、でも個人個人がどこかでやっぱ歯止めをかけていかなきゃいけないのかな。少なくとも、僕は今後もゆっくりゆっくりレビューを更新していこうと思います。消費ベースではなく、感情ベースで。


だって、なんか寂しいじゃないですか。昔のメンタル系サイトとか、確かに鬱陶しい部分も多々あったけど、あそこにあったのは作者vs読者の二項対立ですもんね。今の(うちのサイトも含めた)レビュー氾濫の裏にあるのは、消費財vs読者の二項対立ですよ。もっと極論すれば、消費財vs消費願望の二項対立。いや、ここまで来ると何も対立してねえな。寧ろハーモニーじゃん?


「人」が。其処には圧倒的に「人」という存在が希薄じゃないですか。そんな未来は真っ平ごめんだよ。