サイモン・セッズ

恐らく到るところで言及されている事と思いますが、エドワード・サイード死去とのことです。
人間の行動や死が社会全体の思想を大きく左右すると信じている人たちの間で、今日は記念すべき(=文章の書き出しとして適当な、引用すべき)日として記憶されることになるでしょう。


指揮者(「識者」の簡易表現)に言わせれば「同時多発テロ911からちょうど2週間後の死であったことも、とても偶然とは思えない」という感じなのかしら。この言い回しを聞く度いつも不思議に思うことですが、偶然だと思えないのなら其れは即ち必然であり、だとすれば一体彼らにとって偶然と必然のボーダーラインは何処なのでしょう。
「ちょうど17日」だと「必然ではない」から「偶然」なのか。世の中の事象全てをincidentとaccidentに二分して考えようとするなら、「俺はさっき晩飯を食った」という事象は事件なのか事故なのか。
そこんとこ豊富な主張に裏付けされた知識でご教授願いた去ね。


イードといえば、僕たちの世代で政治学を多少なりとも齧った人間にとってはバイブルのようなものでした。
英語のBibleではなく、日本語で言うところのバイブル。
つまり、日本人は聖書を読まないので、積んでおくだけの本だということです。『オリエンタリズム』とか、確かに読んで感銘を受けた奴は多いんだろうけど、買って挫折した奴は其の何倍もいたでしょう。


それでもサイードの本が古本屋の店頭に並ばず、彼らの家で積まれていたということは、少なくとも「いつかは読みたい」という気持ちにさせるだけの表層的な魅力が件の本にあったことを意味しているわけで、物流速度の実験をしているとしか思えないような本ばかり上梓する学者に混じって、やはり彼の存在は偉大であったわけです。
「知識人とはなにか」という、学生の自尊心とアイデンティティを絶妙にくすぐる著書があったこともカリスマ学者の必要充分条件として永く記憶されるべき。


兎に角90年代以降の世代にとっては、『文明の衝突』と並んで、「21世紀はグローカリズムがね…」などと少量を斜め読みしただけで論客を気取れる罪な存在でした。
90年代後半は個人ツールとしてのWEBが発達して精神的に定着したこともあって(基本的に日記であれ掲示板であれ、個人ツールとしてのWEBはツッコミメディア)、そんな俄か論客を同じく知ったかぶりで馬鹿にする愚弄家リズムも大量発生、同時にIT革命にベンチャー・キャピタルという身震いしそうな単語が幅を利かせた90年代最後半から21世紀最初頭までは、日本キャンパス史に残る自由闊達に寒い時代であったと思います。


一方英語圏におけるサイードの評価はといえば、Edward Saidという其の名が彼に対する印象の全てを支配していたと云っても過言では無いでしょう。
意図的に表記されたSaid(サイード)とsaid(sayの過去形)のコラボレーションが不思議な説得力を生み、我々はEdward Saidという表記を見る度に、まるで"Simon Says!"と言われているかのような、右手を挙げて指示に従わずにはおられない空気に包まれるのでした。


したがって、これは極論ですが、若し仮に彼の名前がSaidで無かったならば、彼の言論における説得力は殊英語圏に限定した場合、随分目減りしたものであったろうと想像するのです。結局のところ、思想もファッションなのだから。


僕たちは常に「信じても良いよ」という言葉で騙してくれる存在を求めていて、日本人にとってはオリエンタリズムの代表者であるというその表層的なプロフィールが、そして自分が良心的なアメリカ人だと信じる事で日々の暴飲暴食や家庭内暴力の罪から救われたい毛唐どもにとってはSaidというファミリーネーム表記とその響きが与える啓示感が、各々サイードをカリスマにした。
彼の自伝、『遠い場所の記憶』を30秒フラットで斜め読みしながら、ふとそんなことを思いました。


それにしても表紙の写真阪神のアリアスに似てね?