世界不思議機甲

アフガン攻撃のときもそうだったけど、戦争になると必ず「大学で政治学を専攻した人間として一言」みたいな鼻持ちならない事情通ぶったテクストをWEBに載せるやつがいるじゃないですか。あれマジうざいよね。


っていうか、俺、俺!それ俺だっつの。


政治学とか専攻する段階で気持ち悪ぃのに、5年もいたからね。まじ専攻しすぎ。まあ落としたのは経済学の単位なんですけど(...経済学入門)!俺も本当は平和を愛する青年だから専攻なんかしたくなかったのに、専守じゃダメだって教務課が言うからさー。


ということで、かくも戦争の話は難しいものです。
不謹慎でギャグにはし辛いし、真剣に語っても価値観が露骨にぶつかる問題だけに共感を得るどころか、自分の想いを正確に伝えることさえ叶わなかったり。


ただ、イラクでも米国でも、ひょっとすると日本ですら無いこの電子の海を生きる私たちには、反戦デモやアメリカ礼賛よりも、最も心に留めておかなければならないことがひとつあります。戦争なんかどうでも良いくらい大事なこと。


それは単純だけど、感情と言葉は全く違うものだということ。
例えばインターネット上で「闇雲に反戦を唱えても何も解決しない。この戦争には賛成はできないが容認する。仕方の無い戦争なのだ」みたいな冷静な文章を読むと、大学で政治学を専攻した俺ですら(今度からこれギャグに使おう)何を偉そうにとカチンと来るわけですよ。お前の心はマックのポテトかと。冷めきっているのかよと。
イラクで罪のない子供が血を流しているときに、同じ血の通った人間としてお前の言える科白はそれだけなのかと。まあ、怒ったりするわけで。


でもそりゃ違うんすよね。
そんな瞬間、僕らは書き手が「感情」から一段階経て編み上げた「文章」を読んでいるんであって、それを勝手に自分の「感情」と相克させて「こいつぁ冷血漢だ」とか思うのは筋違いっていう、極めて単純な構図が其処にはある。


良くいるじゃないですか、テレビに出てくる軍事評論家に対して厳しく当たるような不思議な神経回路の人が。「戦争になれば稼ぎどきとばかりにしゃしゃり出やがって」みたいな心境なんでしょうか。多分江畑さんが色んな意味で有名なんだろうけど、あの落ち着いた語り口が腹立つのかな。「乗客に日本人はいませんでした」と言うニュースキャスターに怒るのと同じ思考パターン。


そりゃ勿論江畑さんだって戦争で死ぬ子供のことを何も思わないわけじゃなかろうに、沈痛な表情で「私はこの職業を恥じています」とか言いながら解説しろってか。


こう書いていくと当たり前過ぎてバカに見える話だけど、僕たちは段々無意識にこの感情とその表出としてある言葉の区別が見えなくなってきているんじゃないかと思う。坂本隆一が「戦争に反対する人も賛成する人も感情だけで動いているように見える」と今回のイラク攻撃に対してコメントを出してましたけど、本来戦争なんて人が死ぬわけだから、理屈で動けるわけないんですよね。感情だけで動いて当然っていう。


なのに戦場に従軍記者と精密なカメラが入って、そのイラク人なりアメリカ人の感情の塊がダイレクトに世界中のテレビへと届けられるようになった。僕たちは感情面だけならヨルダンの反戦デモとも、アメリカでのディキシー・チックス不買運動ともコネクトできる。まあ、技術の進歩なんて嘆いても何の意味も無いんだけどさ。


一方で中継者までもが感情的になるわけにはいかないので、本来なら「冷静」や「正気」なんて保てる筈も無い戦争の光景を横目で見ながら、当事者でもない日本の第三者が戦争を「解説」「分析」するという無茶な情理の捩れが生まれてきた。


感情と感情のチャンネルを冷静が繋ぐという捩れ。
ここにヒステリーが生まれます。


21世紀の戦争は知識欲とヒステリーによって齎される。
と、誰かが言っておりました。
「オサマ・ビンラディンが何処に隠れているのか知りたい」
イラクは本当に大量破壊兵器を持っているのか知りたい」
「ブッシュは何処まで脳死なのか知りたい」


テレビを毎日見ていれば誰もが極めてナチュラルに思い到る、これらの感情が答えが出ない癖に毎日同じツラ晒して「3月26日、今日のニュースです」なんて喋ってやがる画面を見ながら増幅していって、「隠れ場所がわからないなら全部爆破しちゃおうぜ」「手っ取り早くバグダッドを攻撃すりゃ良いじゃん」といったヒステリーに変わる。


そしてそのアメリカの攻撃ムードを敏感に、しかし冷静に伝える日本のニュース。を見て苛立ちを募らせる僕たち日本国民。しかし3丁目の角にブッシュが住んでるわけでもないので、その反戦平和の思いをアメリカ人に伝える手法がない。相変わらず冷静に「本当に開戦なのでしょうか」「何か我々にできることは」と煽り続ける中継者。そして生まれるヒステリー。ブッシュ死ね。


勿論、理性的な意見や啓発をマスメディアを通じて享受することはできます。
しかし前述したように、21世紀のヒステリアは冷静が冷静と冷静を媒介するように作られているのではなく、感情と感情を冷静が中継する形でその実遮っているのが問題なわけですから、理性的な意見を読む度に、僕らはその意見が「向こう側のヒステリー」へと届くことは無いのを知って苛立つばかり。


こうして全ての知性は抹殺されて行くのでありました。
大学で幾ら政治学を専攻しようと、軍事評論家であろうと、「感情」というスカウターの前では完全に無力なのです。


「何をしたり顔で偉そうに」
「あなた人が死んでるときに良くそんな落ち着いたことが言えますね」
「戦争で金儲けなんて汚らしい」
ヒステリーに知性を剥ぎ取られて素裸になった冷静は、感情という秤で裁かれて葬られてしまう。もう僕たちが「冷静」に求めるのは、チャンネルとしての無機質な機能だけ。今求められているのは感情の権威というわけか。


こうして全ての知性は抹殺されて行くのでありました。
民主党支持者であろうと、中東問題の権威であろうと、ユダヤ人であろうと、ナタリーであろうと、「感情」といスカウターの前では完全に無力なのです。


「戦場で闘っている兵士を侮辱するつもりか」
911を忘れたのか」
サウスカロライナ州に今すぐ謝罪せよ」
アメリカだって状況は同じ。イラクだってそうさ。フランスも。


ヒステリーは等質に燃え上がる。なぜならこの素晴らしき地球で神は全ての人間を平等にお造りになったから。昔の土人ピジンも誰もが同じ感情と人権を持つことが麗しき啓蒙の20世紀によって明らかになった。
アメリカ人がヒステリーを起こしているときは、地球の裏側でイラク人もヒステリーを起こしているのだ。神はその権利を与えられた。


30年後、かつて国際化やグローバルといった単語と共に語られた「知性」は、極端にグローカルなものへと変わっているはずだ。
自分が住む国、その国の世論や感情の流れを敏感に読み、そこから乖離しない発言をコンスタントに放てること。


それが知性のヒステリア。


戦争は何もイラクだけで起きているわけじゃない。ブラウン管に手を伸ばせば届きそうな距離で燃えている爆撃された建物を見ながら、襲ってくる苛立ちと闘おう。苛立ちと知識欲という名の下劣な出歯亀から齎された全ての政治思想を却下しよう。自分のストレスから来るヒステリーを平和や戦争で言い訳するな。


人間の盾になりたい。
冷静と情熱の間で、人間の心の盾になりたい。